2021.12.06
 

徳永京子×小沢道成
徳永さんって、普段どういう視点から演劇を観ているんですか?


2021.12.06
 

徳永京子×小沢道成
徳永さんって、普段どういう視点から演劇を観ているんですか?


たった一人で、本多劇場に立つ。
 
その険しい道のりを歩み出した小沢道成が、今話したい人とじっくり対話を重ねるインタビュー連載。第2回の対談相手は、演劇ジャーナリスト・徳永京子さんです。
 
ひとりのつくり手として、ひとりの観客として、徳永さんの書く劇評に影響を受けてきたという小沢。この人に自分のつくった作品を観てもらったとき、どんな感想を抱くだろうか。湧き上がる好奇心をおさえきれず、1通の案内を送ったところから2人の交流が始まりました。
 
多くの演劇作品を観てきた徳永さんは、小沢道成の作品をどう受け止めたのか。批評する者と、批評される者。交わるようでなかなか交わらない両者の線が今、交差します。

 
 


 

たった一人で、本多劇場に立つ。
 
その険しい道のりを歩み出した小沢道成が、今話したい人とじっくり対話を重ねるインタビュー連載。第2回の対談相手は、演劇ジャーナリスト・徳永京子さんです。
 
ひとりのつくり手として、ひとりの観客として、徳永さんの書く劇評に影響を受けてきたという小沢。この人に自分のつくった作品を観てもらったとき、どんな感想を抱くだろうか。湧き上がる好奇心をおさえきれず、1通の案内を送ったところから2人の交流が始まりました。
 
多くの演劇作品を観てきた徳永さんは、小沢道成の作品をどう受け止めたのか。批評する者と、批評される者。交わるようでなかなか交わらない両者の線が今、交差します。 

 


 

徳永さんからのメールに泣きそうになりました
 
小沢 今日はお話ができて本当にうれしいです。実はずっと徳永さんの劇評やTwitterでの感想を読んでいて。『鶴かもしれない2020』のときもぜひ観ていただきたかったんです。ただ、なんのつながりもなかったですし、実際に観てどんな感想を抱かれるのかと思うと、ちょっと怖いなというのもあって、なかなか勇気が出なかったんですけど(笑)。
徳永 私も以前から小沢さんのお名前は知っていましたし、『鶴かもしれない』という作品をやっていらっしゃることも高野(しのぶ)さんがお書きになった感想を読んだりして知ってはいたんです。ただ、私もなかなか拝見できなくて…。
小沢 お忙しいですもんね。せっかくなのでぜひ聞かせてください。名前は知ってくださっていたものの、なかなか足が向かなかったのって、近寄りがたい何かがあったんでしょうか。
徳永 近寄りがたいというよりは…。
小沢 いや、もうここは正直に。
徳永 そうですね、正直だけが取り柄なので(笑)。率直に、私の好みではないと思っていたんです(笑)。
小沢 (笑)。それは何かイメージが?
徳永 私、「笑って泣かせる」感じのお芝居にあまり興味がなくて。もちろんそういうお芝居をつくっている方がいらっしゃるのはいいですし、そういうタイプの作品を楽しまれる方が多いことも知っています。あくまで、私自身はそうじゃないものに目を向けたいというだけで。そして、Twitterなどで漏れ聞こえてくる評判を聞く限り、小沢さんは「笑って泣かせる」作品をつくる方なのかなというイメージはありました。
小沢 『夢ぞろぞろ』の再演(2021年)のときに勇気を出して徳永さんにご案内を差し上げたんですけど、実際に観てみてイメージは変わりましたか。
徳永 時系列でいうと、実はその前に本多劇場でやった『DISTANCE』(2020年)を拝見しているんです。そのときの印象は9割イメージ通りでした(笑)。
小沢 9割(笑)。
徳永 ただ、『DISTANCE』は最初の緊急事態宣言があけてすぐに行われた無観客生配信公演。いろんな制約もある中で敢行された企画なので、これだけでは決められないなと思って、改めて劇場で『夢ぞろぞろ』を観させていただきました。
小沢 で、その9割に変化はありましたか。
徳永 8割イメージ通りでした(笑)。
小沢 1割減った(笑)。
徳永 (笑)。ただ、その時、残りの2割に引っかかるものを感じたんです。それで、公演が終わったあとに、小沢さんから丁寧なお礼のメールを頂戴して、それに返信するかたちで私の思ったことを書かせていただいたんですけど。
小沢 僕はそれを読んで泣きそうになりました。かいつまんで説明すると、要はとてもサービス精神のある方だと思うけど、もっと自分自身が持っている暗い部分を怖がらずに表現してみてもいいんじゃないかという内容で。そうか、もっと自分をさらけ出していいんだと思って、怖いけど、それに挑戦してみたのが今年8月の『オーレリアンの兄妹』だったんです。
徳永 『オーレリアンの兄妹』はとても面白かったです。さっきの割合でいったら大逆転。
小沢 うれしい! ぜひ詳しく聞かせてください。
徳永 『夢ぞろぞろ』は、人間の表と裏がさまざまなレベルで描かれている作品だと思ったんですけど。その中で小沢さんが、演じるおばちゃん自身に何か気を遣っているような印象を受けたんです。
小沢 と言うと?
徳永 自分が書いたキャラクターに気を遣ってというか、その人の人生に暗い部分があるからこそ、美しさの方をなるべく前に出してあげたいというような。でも、きっと小沢さんは暗い部分を書ける人だろうし、作劇的には、そこをきちんと描くことが美しさを際立たせるので、もっとそこを出してみればいいのにという気持ちが残りました。優しさというかサービス精神が仇になっているのではと。そこが『オーレリアンの兄妹』ではスムーズにいっているように見えたんですよね。たぶんそれは妹役の中村 中さんに大きいものを預けて、100:100の力でぶつかり合った結果、登場人物に気を遣っている余裕なんてなかったからかもしれないですけど。
 

徳永さんからのメールに泣きそうになりました
 
小沢 今日はお話ができて本当にうれしいです。実はずっと徳永さんの劇評やTwitterでの感想を読んでいて。『鶴かもしれない2020』のときもぜひ観ていただきたかったんです。ただ、なんのつながりもなかったですし、実際に観てどんな感想を抱かれるのかと思うと、ちょっと怖いなというのもあって、なかなか勇気が出なかったんですけど(笑)。
徳永 私も以前から小沢さんのお名前は知っていましたし、『鶴かもしれない』という作品をやっていらっしゃることも高野(しのぶ)さんがお書きになった感想を読んだりして知ってはいたんです。ただ、私もなかなか拝見できなくて…。
小沢 お忙しいですもんね。せっかくなのでぜひ聞かせてください。名前は知ってくださっていたものの、なかなか足が向かなかったのって、近寄りがたい何かがあったんでしょうか。
徳永 近寄りがたいというよりは…。
小沢 いや、もうここは正直に。
徳永 そうですね、正直だけが取り柄なので(笑)。率直に、私の好みではないと思っていたんです(笑)。
小沢 (笑)。それは何かイメージが?
徳永 私、「笑って泣かせる」感じのお芝居にあまり興味がなくて。もちろんそういうお芝居をつくっている方がいらっしゃるのはいいですし、そういうタイプの作品を楽しまれる方が多いことも知っています。あくまで、私自身はそうじゃないものに目を向けたいというだけで。そして、Twitterなどで漏れ聞こえてくる評判を聞く限り、小沢さんは「笑って泣かせる」作品をつくる方なのかなというイメージはありました。
小沢 『夢ぞろぞろ』の再演(2021年)のときに勇気を出して徳永さんにご案内を差し上げたんですけど、実際に観てみてイメージは変わりましたか。
徳永 時系列でいうと、実はその前に本多劇場でやった『DISTANCE』(2020年)を拝見しているんです。そのときの印象は9割イメージ通りでした(笑)。
小沢 9割(笑)。
徳永 ただ、『DISTANCE』は最初の緊急事態宣言があけてすぐに行われた無観客生配信公演。いろんな制約もある中で敢行された企画なので、これだけでは決められないなと思って、改めて劇場で『夢ぞろぞろ』を観させていただきました。
小沢 で、その9割に変化はありましたか。
徳永 8割イメージ通りでした(笑)。
小沢 1割減った(笑)。
徳永 (笑)。ただ、その時、残りの2割に引っかかるものを感じたんです。それで、公演が終わったあとに、小沢さんから丁寧なお礼のメールを頂戴して、それに返信するかたちで私の思ったことを書かせていただいたんですけど。
小沢 僕はそれを読んで泣きそうになりました。かいつまんで説明すると、要はとてもサービス精神のある方だと思うけど、もっと自分自身が持っている暗い部分を怖がらずに表現してみてもいいんじゃないかという内容で。そうか、もっと自分をさらけ出していいんだと思って、怖いけど、それに挑戦してみたのが今年8月の『オーレリアンの兄妹』だったんです。
徳永 『オーレリアンの兄妹』はとても面白かったです。さっきの割合でいったら大逆転。
小沢 うれしい! ぜひ詳しく聞かせてください。
徳永 『夢ぞろぞろ』は、人間の表と裏がさまざまなレベルで描かれている作品だと思ったんですけど。その中で小沢さんが、演じるおばちゃん自身に何か気を遣っているような印象を受けたんです。
小沢 と言うと?
徳永 自分が書いたキャラクターに気を遣ってというか、その人の人生に暗い部分があるからこそ、美しさの方をなるべく前に出してあげたいというような。でも、きっと小沢さんは暗い部分を書ける人だろうし、作劇的には、そこをきちんと描くことが美しさを際立たせるので、もっとそこを出してみればいいのにという気持ちが残りました。優しさというかサービス精神が仇になっているのではと。そこが『オーレリアンの兄妹』ではスムーズにいっているように見えたんですよね。たぶんそれは妹役の中村 中さんに大きいものを預けて、100:100の力でぶつかり合った結果、登場人物に気を遣っている余裕なんてなかったからかもしれないですけど。

 
小沢 確かに『オーレリアンの兄妹』は中さんと出会えたからつくれた作品でした。常に中さんと「こういう状況になったらどういう言葉をかける?」ということを話し合いながらつくった感じで。
徳永 童話と現代の社会問題を結びつける作劇自体はよくあるものだし、テーマが虐待というのも最近では珍しいものではありません。面白かったのは、その描き方ですね。虐待を受けた人が親になったときに虐待する側になって暴力を繰り返してしまうという暴力の再生産はよく指摘されていますが、小沢さんが描いたのはもうひとつ奥のドアを開けたというか、子どもが親のダメさ加減に非常に意識的でクレバーで、ギリギリのところで暴力による支配、暴力の再生から抜け出せたけれども、自らの意思で選びとった道が決して清く正しく美しいとは限らない。暴力の再生産はなくても、精神的な支配や、生きるためには手段を選ばないという選択が兄妹には待っていて、社会の目が届かないところにそうした危険が潜んでいることが照らし出されていて、戯曲としてとてもよく出来ていると思いました。
小沢 うれしい。『オーレリアンの兄妹』では、自分の暗い部分を出すと決めた一方で、重いテーマを伝えるだけというのは自分には直球すぎて。観た人が度肝を抜かれるものにしたかったんですよね。それで、視覚的に楽しめる何かを入れたくて、家のセットにはいろんな仕掛けを施したんですけど、徳永さんから見たらエンターテインメントすぎるかなって、ちょっとドキドキでした。
徳永 大丈夫。いいバランスでした。
小沢 よかった! 『オーレリアンの兄妹』にとって、エンターテインメント性は不意を突くための振りでした。最初はおもちゃ箱みたいに楽しかったものが、実はものすごくヘビーだったという。自分の暗さを恐れずさらけ出そうという気持ちと、エンターテインメントであることを忘れたくないという精神との戦いでしたね。
 
 
コロナ禍を受けて、台本を書き換えようと思った
 
徳永 『鶴かもしれない』は何回か上演を重ねていると聞いていますが、再演のたびに台本は書き換えていらっしゃるんですか。
小沢 初演が2014年で、2016年のときに一度手を入れました。『鶴かもしれない』は『鶴の恩返し』や『鶴女房』が下敷きになっていて。鶴は自分を助けてくれた男のために羽をむしって機(はた)を織る。それを現代に置き換えたら…という話なんですけど。初演のときは、鶴にあたる女性の話に終始していて、それだと相手役の男性の印象が弱すぎるなと思って、再演をするにあたって男性側のエピソードを追加して、物語を膨らませてみたんです。台本を大幅に直したのはそのときだけで。2020年に上演したときは、美術は思い切り変えましたけど、台本に関してはほとんど2016年のときのままでした。
徳永 今回はどうですか。
小沢 今回は今までにないくらい大きく書き換える予定です。理由は、やっぱりコロナ禍。今って生活するだけでも大変じゃないですか。若い学生さんとか環境によってはお金がなくて授業料も払えないということが書かれた本を今読んでいます。
徳永 本当に。また給付金が出るという話もありますが、18歳以下が対象だとか半分はクーポンになるとか、とにかく条件付き、限定的で。
小沢 そうなんです。そういう逼迫した状況で、人が行き着く先はどこなんだろうとこの1年ずっと考えていて。この時代に生きていくことの苦しさを僕自身もひしひしと感じているからこそ、そこを『鶴かもしれない2022』ではしっかり描きたいと思って、台本を書き換えることにしました。
徳永 コロナ禍つながりで私が気になっていることをお話しすると、小劇場の公演期間が以前よりずっと短くなっている気がして。と言うのも、私は朝日新聞で劇評を書かせてもらっていて、隙あらば小劇場の評を入れたいと思いつつ、なかなかそれができない理由のひとつが、公演スケジュールなんです。基本的に、新聞の劇評はそれを読んで読者が観に行くことが存在意義のひとつ。だけど、小劇場の場合、劇評が載る頃にはもう公演が終わっていることが多くて。コロナ禍になってからはこれまで以上に短い期間の公演が増えた印象があります。
小沢 それはやっぱり公演を打つ側としては、あまりにも長くやりすぎるとリスクが増えるからなんでしょうけど。
徳永 わかります。もしかしたらこれは、新聞に劇評が載る載らないどころの話ではなく、種さえなかなか蒔かれない状況になっているんじゃないかという危惧があって。コロナ禍を機にネットでさまざまな表現に取り組んでいるつくり手もいて、その動きには頼もしさを覚えます。でもその一方で、コロナ禍で公演を打つリスク、経済的、精神的な負担を考えたら今はやらなくてもいいという選択をする人が増えていっている状況は確実に未来を変えてしまいますよね。
小沢 公演を打つことが博打になっちゃってるんですよね。今は、夢を見ている場合じゃない時代になっている気がして。これからはお金を稼ぐことがメインの時代になりそうで、演劇をやる人もおそらく減るんじゃないかなって、ちょっと心配です。
徳永 もうすでに言われていますけど、大学がオンラインになったことで、学生さんが演劇と出会う場も、創作と発表の場も失われている。2000年以降、学生劇団のプレゼンスが少しずつ下がってきていたのが、このコロナ禍で追い討ちをかけられた感はあります。
小沢 この『鶴かもしれない2022』をやるのは、そういう状況をなんとか少しでも打破したいという気持ちもありました。この時代に1人で本多劇場でやるなんてバカだなと思う人はいっぱいいるかもしれない。でも、たとえバカでも何か行動をしていかないと。たぶん僕、コロナ禍のこの1年あまりが今まででいちばん芝居をしていたかもしれないです。なんだかわからないけど、絶対に続けなきゃという意地に突き動かされていました。
 

小沢 確かに『オーレリアンの兄妹』は中さんと出会えたからつくれた作品でした。常に中さんと「こういう状況になったらどういう言葉をかける?」ということを話し合いながらつくった感じで。
徳永 童話と現代の社会問題を結びつける作劇自体はよくあるものだし、テーマが虐待というのも最近では珍しいものではありません。面白かったのは、その描き方ですね。虐待を受けた人が親になったときに虐待する側になって暴力を繰り返してしまうという暴力の再生産はよく指摘されていますが、小沢さんが描いたのはもうひとつ奥のドアを開けたというか、子どもが親のダメさ加減に非常に意識的でクレバーで、ギリギリのところで暴力による支配、暴力の再生から抜け出せたけれども、自らの意思で選びとった道が決して清く正しく美しいとは限らない。暴力の再生産はなくても、精神的な支配や、生きるためには手段を選ばないという選択が兄妹には待っていて、社会の目が届かないところにそうした危険が潜んでいることが照らし出されていて、戯曲としてとてもよく出来ていると思いました。
小沢 うれしい。『オーレリアンの兄妹』では、自分の暗い部分を出すと決めた一方で、重いテーマを伝えるだけというのは自分には直球すぎて。観た人が度肝を抜かれるものにしたかったんですよね。それで、視覚的に楽しめる何かを入れたくて、家のセットにはいろんな仕掛けを施したんですけど、徳永さんから見たらエンターテインメントすぎるかなって、ちょっとドキドキでした。
徳永 大丈夫。いいバランスでした。
小沢 よかった! 『オーレリアンの兄妹』にとって、エンターテインメント性は不意を突くための振りでした。最初はおもちゃ箱みたいに楽しかったものが、実はものすごくヘビーだったという。自分の暗さを恐れずさらけ出そうという気持ちと、エンターテインメントであることを忘れたくないという精神との戦いでしたね。
 
 
コロナ禍を受けて、台本を書き換えようと思った
 
徳永 『鶴かもしれない』は何回か上演を重ねていると聞いていますが、再演のたびに台本は書き換えていらっしゃるんですか。
小沢 初演が2014年で、2016年のときに一度手を入れました。『鶴かもしれない』は『鶴の恩返し』や『鶴女房』が下敷きになっていて。鶴は自分を助けてくれた男のために羽をむしって機(はた)を織る。それを現代に置き換えたら…という話なんですけど。初演のときは、鶴にあたる女性の話に終始していて、それだと相手役の男性の印象が弱すぎるなと思って、再演をするにあたって男性側のエピソードを追加して、物語を膨らませてみたんです。台本を大幅に直したのはそのときだけで。2020年に上演したときは、美術は思い切り変えましたけど、台本に関してはほとんど2016年のときのままでした。
徳永 今回はどうですか。
小沢 今回は今までにないくらい大きく書き換える予定です。理由は、やっぱりコロナ禍。今って生活するだけでも大変じゃないですか。若い学生さんとか環境によってはお金がなくて授業料も払えないということが書かれた本を今読んでいます。
徳永 本当に。また給付金が出るという話もありますが、18歳以下が対象だとか半分はクーポンになるとか、とにかく条件付き、限定的で。
小沢 そうなんです。そういう逼迫した状況で、人が行き着く先はどこなんだろうとこの1年ずっと考えていて。この時代に生きていくことの苦しさを僕自身もひしひしと感じているからこそ、そこを『鶴かもしれない2022』ではしっかり描きたいと思って、台本を書き換えることにしました。
徳永 コロナ禍つながりで私が気になっていることをお話しすると、小劇場の公演期間が以前よりずっと短くなっている気がして。と言うのも、私は朝日新聞で劇評を書かせてもらっていて、隙あらば小劇場の評を入れたいと思いつつ、なかなかそれができない理由のひとつが、公演スケジュールなんです。基本的に、新聞の劇評はそれを読んで読者が観に行くことが存在意義のひとつ。だけど、小劇場の場合、劇評が載る頃にはもう公演が終わっていることが多くて。コロナ禍になってからはこれまで以上に短い期間の公演が増えた印象があります。
小沢 それはやっぱり公演を打つ側としては、あまりにも長くやりすぎるとリスクが増えるからなんでしょうけど。
徳永 わかります。もしかしたらこれは、新聞に劇評が載る載らないどころの話ではなく、種さえなかなか蒔かれない状況になっているんじゃないかという危惧があって。コロナ禍を機にネットでさまざまな表現に取り組んでいるつくり手もいて、その動きには頼もしさを覚えます。でもその一方で、コロナ禍で公演を打つリスク、経済的、精神的な負担を考えたら今はやらなくてもいいという選択をする人が増えていっている状況は確実に未来を変えてしまいますよね。
小沢 公演を打つことが博打になっちゃってるんですよね。今は、夢を見ている場合じゃない時代になっている気がして。これからはお金を稼ぐことがメインの時代になりそうで、演劇をやる人もおそらく減るんじゃないかなって、ちょっと心配です。
徳永 もうすでに言われていますけど、大学がオンラインになったことで、学生さんが演劇と出会う場も、創作と発表の場も失われている。2000年以降、学生劇団のプレゼンスが少しずつ下がってきていたのが、このコロナ禍で追い討ちをかけられた感はあります。
小沢 この『鶴かもしれない2022』をやるのは、そういう状況をなんとか少しでも打破したいという気持ちもありました。この時代に1人で本多劇場でやるなんてバカだなと思う人はいっぱいいるかもしれない。でも、たとえバカでも何か行動をしていかないと。たぶん僕、コロナ禍のこの1年あまりが今まででいちばん芝居をしていたかもしれないです。なんだかわからないけど、絶対に続けなきゃという意地に突き動かされていました。

 
違和感を持ったことが感想の中心になる
 
小沢 徳永さんとこんなにお話できる機会なんてそうないので、ぜひ聞いてみたいことがあって。
徳永 なんですか。
小沢 いつも徳永さんの劇評やTwitterの感想を読んでいると、たった1回観ただけなのに、どうしてここまで構造が分析できるんだろうって驚くことが多くて。普段、どういう視点から演劇をご覧になっているんですか。
徳永 それはものすごく難しい質問ですね(笑)。
 
――ではひとつの例として、徳永さんがTwitterに書いた『オーレリアンの兄妹』の感想をご紹介します。
 



 
小沢 こんなふうに書いていただけて、本当にありがたいですよね。徳永さんのすごいなと思うところが、分析力もそうなんですけど、言葉の選び方です。この中で言うと、たとえば「善悪のラリー」とか。あとは、『鶴かもしれない2022』の紹介コメントでも「井戸」という言葉を使われていて。それを読んだときに、確かに僕って井戸かもしれないって思ったんです。
徳永 鶴かもしれない、じゃなくて?(笑)
小沢 井戸かもしれない。やだ見出しになっちゃう(笑)。なんだろう。井戸を覗くときの、見てみたいような、怖いようなあの感覚は、僕の目指しているところでもあるし、僕の人生そのものだとも思いました。
徳永 自分なりに考えてみたのですが、基本的に私、違和感を持ったことが感想の中心になるんですよね。なんでこんな台詞が出てくるんだろうとか、なんで今喋ってないのにこの人にスポットが当たってるんだろうとか。たとえば『オーレリアンの兄妹』だったら、妹が家の外の雑草を取ってきて料理するのも、違和感のひとつでした。
小沢 どういうことですか。
徳永 たとえば、あの「おかしな家」の設定なら、引き出しの中からほしいものが出てくるとか、他にもいろんな方法があったと思うんです。そこで、まず「あれ?」と思う。そういう小さな「あれ?」が他の「あれ?」とつながっていって、出てきたのがこのツイートにもある「境界線」という言葉でした。こうした違和感を感じたものって、なにかのメタファーであることが多くて。それがまた別の違和感とつながって、隠されていたものがふっと見えるときがある。つくり手の方が無意識で書いたせりふや付けた演出という場合もあるんですけど、点が線になって矢印になると、作者も想定しなかった物語が生まれて面白くなる。つくり手の手を離れて作品が個人とつながる、その個人を通して社会とつながることは演劇の大きな力だと思っているので、そうやって違和感から逆算して作品を観ることを勝手にやっている気はします。
小沢 面白い! 違和感が感想の中心になるというのはすごい納得です。
徳永 人によっては、その違和感が「わからない」という拒絶反応になってシャッターを下ろしてしまう場合もあると思うんですけど、私は違和感がある方が興味をひかれますね。
 

違和感を持ったことが感想の中心になる
 
小沢 徳永さんとこんなにお話できる機会なんてそうないので、ぜひ聞いてみたいことがあって。
徳永 なんですか。
小沢 いつも徳永さんの劇評やTwitterの感想を読んでいると、たった1回観ただけなのに、どうしてここまで構造が分析できるんだろうって驚くことが多くて。普段、どういう視点から演劇をご覧になっているんですか。
徳永 それはものすごく難しい質問ですね(笑)。
 
――ではひとつの例として、徳永さんがTwitterに書いた『オーレリアンの兄妹』の感想をご紹介します。
 



 
小沢 こんなふうに書いていただけて、本当にありがたいですよね。徳永さんのすごいなと思うところが、分析力もそうなんですけど、言葉の選び方です。この中で言うと、たとえば「善悪のラリー」とか。あとは、『鶴かもしれない2022』の紹介コメントでも「井戸」という言葉を使われていて。それを読んだときに、確かに僕って井戸かもしれないって思ったんです。
徳永 鶴かもしれない、じゃなくて?(笑)
小沢 井戸かもしれない。やだ見出しになっちゃう(笑)。なんだろう。井戸を覗くときの、見てみたいような、怖いようなあの感覚は、僕の目指しているところでもあるし、僕の人生そのものだとも思いました。
徳永 自分なりに考えてみたのですが、基本的に私、違和感を持ったことが感想の中心になるんですよね。なんでこんな台詞が出てくるんだろうとか、なんで今喋ってないのにこの人にスポットが当たってるんだろうとか。たとえば『オーレリアンの兄妹』だったら、妹が家の外の雑草を取ってきて料理するのも、違和感のひとつでした。
小沢 どういうことですか。
徳永 たとえば、あの「おかしな家」の設定なら、引き出しの中からほしいものが出てくるとか、他にもいろんな方法があったと思うんです。そこで、まず「あれ?」と思う。そういう小さな「あれ?」が他の「あれ?」とつながっていって、出てきたのがこのツイートにもある「境界線」という言葉でした。こうした違和感を感じたものって、なにかのメタファーであることが多くて。それがまた別の違和感とつながって、隠されていたものがふっと見えるときがある。つくり手の方が無意識で書いたせりふや付けた演出という場合もあるんですけど、点が線になって矢印になると、作者も想定しなかった物語が生まれて面白くなる。つくり手の手を離れて作品が個人とつながる、その個人を通して社会とつながることは演劇の大きな力だと思っているので、そうやって違和感から逆算して作品を観ることを勝手にやっている気はします。
小沢 面白い! 違和感が感想の中心になるというのはすごい納得です。
徳永 人によっては、その違和感が「わからない」という拒絶反応になってシャッターを下ろしてしまう場合もあると思うんですけど、私は違和感がある方が興味をひかれますね。

 
回収に血道を上げるつくり手はダサいと思っています(笑)
 
徳永 だから、伏線回収って作劇の評価のポイントになっていますけど、そこに血道を上げているつくり手は本当にダサイと思っていて(笑)。私、そういうのを回収乞食って呼んでるんですけど(笑)。
小沢 すごい。毒のあることをめっちゃ笑顔で喋られる (笑)。
徳永 自分で蒔いた種を自分で回収して「どうだ!」って、何やってるのかなと思うんです。だって、自分が蒔いた種の場所を覚えているのは普通ですよね。それを、他の人が勝手にお水をあげたり、変なところから日が射して、よくわからない花が咲いたりして、それをいろんな人がそれぞれに楽しむのが作品の広がりだと思いませんか? 観客がいるってそういうことなのに。蒔いた種の場所をチマチマ覚えておいて、周りに生えた雑草をもうすぐ芝居が終わる時間に自分で摘んで「ここにお花があります!」とやっているのを見るとダッサいって思っちゃう(笑)。
小沢 どうしよう。この話、ずっと聞いていたい(笑)。
徳永 私と友達になると、こんな話をずっと聞けます(笑)。
小沢 回収で言うと、徳永さんのツイートにもある蛾と蝶のくだりなんて全然回収できてないんです。それは、僕が理解できないんだから回収なんてできないって思っているからですけど。
徳永 書きっぱなし、種を蒔きっぱなしはもちろんダメです。でも書いたことを作家が自分で全部回収したら、それは作家の想像力と創造力の中で完結する話にしかならない。そんなの、すごく狭苦しいじゃないですか。人の脳内は自由。作家は、他人の脳に自分の物語を預けることを前提としている職業だと私は思います。
小沢 そのときに書き手として難しいのは、どこまで回収して、どこからはほっといていいかをセレクトすることですね。それがセンスなのかな。
徳永 センスであり、腹を括るということでもあり。
小沢 腹を括る。もしかしていちばん大事なことかもしれない、つくる上で。それはつまりお客さんの想像力に身を委ねるとか、お客さんにここから先は渡してみるっていう度胸みたいなものですか。
徳永 渡したあとで全部わかってもらえなくてもいいやと思うことなんじゃないですかね。勇気は要りますけど。
小沢 その言葉だけでまた創作ができそうなくらい、すっごい励みになる! そうかもしれない。人間はわかり合えないですもんね。
徳永 お客さんから「すごく良かったです。こんなに感動したお芝居はないです!」って言われて、そのあとの感想が自分の思っているのとちょっと違うっていうことって。
小沢 あります(笑)。
徳永 ありますよね(笑)。
小沢 それはその人の解釈だから、僕は否定しないですけど、別にそういう意味で書いたわけじゃないけどなあって思うときは大いにあります。特に『オーレリアンの兄妹』で面白かったのが、最後を希望と捉えるか絶望と捉えるかで真っ二つに分かれて。
徳永 なるほど。
小沢 僕の中では希望として書いたつもりなんです。お兄ちゃんが最後に蛾を叩き殺さなかったのは、暴力の連鎖をなんとか断ち切ろうとしているからで。そしてその後に壁が閉じていく。閉じ込められていく光景は確かに絶望に近いけど、閉じきらずに舞台は終わる。それはひとつの希望だなと。でもあれを絶望と捉える人の意見も理解はできる。面白いですけど難しいですよね、お客さんに委ねるって。
徳永 小沢さんとは全然レベルが違うんですけど、私の書いたものでも同じようなことはあります。「読んだけど、意味がわからなかった」とか。
小沢 そうなんですか。
徳永 あとはやっぱり、「徳永さんの文章を読んで、どういう作品なのかわかりました」って言われたけど、その内容が私が言いたかったこととズレていたり。そういうことが続くと、「書いても書いても伝わんねえなおい」って思うんですよ(笑)。
小沢 めっちゃ見出しにしたい。「書いても書いても伝わんねえなおい」って(笑)。
徳永 でも、世の中わからないことが前提という気もします。わからないという平野を行く中で、時々わかるパルスがつながる瞬間がある。それを生きる踏み石にして進んでいくしかないのかなと。
小沢 『鶴かもしれない2022』も完全にわかり合えない話なんです。あとは観た人がそれを希望と捉えるか絶望と捉えるか。
徳永 そうなんですね。期待しています。
 

回収に血道を上げるつくり手はダサいと思っています(笑)
 
徳永 だから、伏線回収って作劇の評価のポイントになっていますけど、そこに血道を上げているつくり手は本当にダサイと思っていて(笑)。私、そういうのを回収乞食って呼んでるんですけど(笑)。
小沢 すごい。毒のあることをめっちゃ笑顔で喋られる (笑)。
徳永 自分で蒔いた種を自分で回収して「どうだ!」って、何やってるのかなと思うんです。だって、自分が蒔いた種の場所を覚えているのは普通ですよね。それを、他の人が勝手にお水をあげたり、変なところから日が射して、よくわからない花が咲いたりして、それをいろんな人がそれぞれに楽しむのが作品の広がりだと思いませんか? 観客がいるってそういうことなのに。蒔いた種の場所をチマチマ覚えておいて、周りに生えた雑草をもうすぐ芝居が終わる時間に自分で摘んで「ここにお花があります!」とやっているのを見るとダッサいって思っちゃう(笑)。
小沢 どうしよう。この話、ずっと聞いていたい(笑)。
徳永 私と友達になると、こんな話をずっと聞けます(笑)。
小沢 回収で言うと、徳永さんのツイートにもある蛾と蝶のくだりなんて全然回収できてないんです。それは、僕が理解できないんだから回収なんてできないって思っているからですけど。
徳永 書きっぱなし、種を蒔きっぱなしはもちろんダメです。でも書いたことを作家が自分で全部回収したら、それは作家の想像力と創造力の中で完結する話にしかならない。そんなの、すごく狭苦しいじゃないですか。人の脳内は自由。作家は、他人の脳に自分の物語を預けることを前提としている職業だと私は思います。
小沢 そのときに書き手として難しいのは、どこまで回収して、どこからはほっといていいかをセレクトすることですね。それがセンスなのかな。
徳永 センスであり、腹を括るということでもあり。
小沢 腹を括る。もしかしていちばん大事なことかもしれない、つくる上で。それはつまりお客さんの想像力に身を委ねるとか、お客さんにここから先は渡してみるっていう度胸みたいなものですか。
徳永 渡したあとで全部わかってもらえなくてもいいやと思うことなんじゃないですかね。勇気は要りますけど。
小沢 その言葉だけでまた創作ができそうなくらい、すっごい励みになる! そうかもしれない。人間はわかり合えないですもんね。
徳永 お客さんから「すごく良かったです。こんなに感動したお芝居はないです!」って言われて、そのあとの感想が自分の思っているのとちょっと違うっていうことって。
小沢 あります(笑)。
徳永 ありますよね(笑)。
小沢 それはその人の解釈だから、僕は否定しないですけど、別にそういう意味で書いたわけじゃないけどなあって思うときは大いにあります。特に『オーレリアンの兄妹』で面白かったのが、最後を希望と捉えるか絶望と捉えるかで真っ二つに分かれて。
徳永 なるほど。
小沢 僕の中では希望として書いたつもりなんです。お兄ちゃんが最後に蛾を叩き殺さなかったのは、暴力の連鎖をなんとか断ち切ろうとしているからで。そしてその後に壁が閉じていく。閉じ込められていく光景は確かに絶望に近いけど、閉じきらずに舞台は終わる。それはひとつの希望だなと。でもあれを絶望と捉える人の意見も理解はできる。面白いですけど難しいですよね、お客さんに委ねるって。
徳永 小沢さんとは全然レベルが違うんですけど、私の書いたものでも同じようなことはあります。「読んだけど、意味がわからなかった」とか。
小沢 そうなんですか。
徳永 あとはやっぱり、「徳永さんの文章を読んで、どういう作品なのかわかりました」って言われたけど、その内容が私が言いたかったこととズレていたり。そういうことが続くと、「書いても書いても伝わんねえなおい」って思うんですよ(笑)。
小沢 めっちゃ見出しにしたい。「書いても書いても伝わんねえなおい」って(笑)。
徳永 でも、世の中わからないことが前提という気もします。わからないという平野を行く中で、時々わかるパルスがつながる瞬間がある。それを生きる踏み石にして進んでいくしかないのかなと。
小沢 『鶴かもしれない2022』も完全にわかり合えない話なんです。あとは観た人がそれを希望と捉えるか絶望と捉えるか。
徳永 そうなんですね。期待しています。

 
忖度した劇評を書いたら、もう相手と目を見て話せなくなる
 
――最後におふたりに聞いてみたいんですけど、批評される側と批評する側って、時にお互い「媚び」が発生する間柄だと思うんですね。その中でどういう関係であることが望ましいと思いますか。
 
小沢 媚びか…。発生します?
徳永 私はあんまり。そのせいかな、友達も少ないんですけど(笑)。
小沢 (笑)。
徳永 私からすると、つまらないと思った作品に正直にダメだったと書いた場合と、本当は言いたいことがあるのに忖度が働いて正直に書けなかった場合では、その後、相手の方にあっけらかんと会えるのは前者なんですね。それまでどんなにいい関係が築けていても、面白くなかった作品を面白かったと書いてしまったら、もうその人と目を見て話せなくなる。逆に、厳しいことを書いた相手とは普通に会えちゃうので、たぶん相手からしたら、「なんだこいつ、この前あんなひどいことを書いたくせに」って思われていると思います(笑)。
小沢 なるでしょうね(笑)。僕も自分が批評される側なので、ボロクソに言われたりすると傷ついちゃうし。でも徳永さんのように劇評を書いてくださったり、言葉を紡いでくださる方がいないと、演劇というか、すべてのエンターテインメントも芸術も成り立たないと思っています。観る人と、つくる人と、それを伝える人がいるから作品が広がっていく。だって、海外の作品を観るときなんて、英語のチラシを見てもよくわかんないから、ニューヨーク・タイムズがどれくらい褒めているかで決めますもん。
徳永 小沢さんから『夢ぞろぞろ』のご案内をいただいたときに感じたのは、観てもらいたいという純粋な気持ちでした。そこに媚びはまったく感じなくて。単純に私が観たらどう感じるのかを知りたがっているというか。感想の引き出しをひとつ増やしたいんだろうなと感じたんです。
小沢 本当にそうで。ずっと徳永さんの劇評を読んでいたからこそ、自分のつくったものが徳永さんの言葉でどう表現されるのかを知りたかった。そして、あのとき『夢ぞろぞろ』に対していただいた感想のおかげで、『オーレリアンの兄妹』が生まれた。だから、やっぱりものをつくる人間にとって、批評をしてくださる人がいるというのはすごくありがたいことなんです。今日いただいた言葉も『鶴かもしれない2022』をつくるにあたって、良いヒントになりました。本当にありがとうございました!
 

忖度した劇評を書いたら、もう相手と目を見て話せなくなる
 
――最後におふたりに聞いてみたいんですけど、批評される側と批評する側って、時にお互い「媚び」が発生する間柄だと思うんですね。その中でどういう関係であることが望ましいと思いますか。
 
小沢 媚びか…。発生します?
徳永 私はあんまり。そのせいかな、友達も少ないんですけど(笑)。
小沢 (笑)。
徳永 私からすると、つまらないと思った作品に正直にダメだったと書いた場合と、本当は言いたいことがあるのに忖度が働いて正直に書けなかった場合では、その後、相手の方にあっけらかんと会えるのは前者なんですね。それまでどんなにいい関係が築けていても、面白くなかった作品を面白かったと書いてしまったら、もうその人と目を見て話せなくなる。逆に、厳しいことを書いた相手とは普通に会えちゃうので、たぶん相手からしたら、「なんだこいつ、この前あんなひどいことを書いたくせに」って思われていると思います(笑)。
小沢 なるでしょうね(笑)。僕も自分が批評される側なので、ボロクソに言われたりすると傷ついちゃうし。でも徳永さんのように劇評を書いてくださったり、言葉を紡いでくださる方がいないと、演劇というか、すべてのエンターテインメントも芸術も成り立たないと思っています。観る人と、つくる人と、それを伝える人がいるから作品が広がっていく。だって、海外の作品を観るときなんて、英語のチラシを見てもよくわかんないから、ニューヨーク・タイムズがどれくらい褒めているかで決めますもん。
徳永 小沢さんから『夢ぞろぞろ』のご案内をいただいたときに感じたのは、観てもらいたいという純粋な気持ちでした。そこに媚びはまったく感じなくて。単純に私が観たらどう感じるのかを知りたがっているというか。感想の引き出しをひとつ増やしたいんだろうなと感じたんです。
小沢 本当にそうで。ずっと徳永さんの劇評を読んでいたからこそ、自分のつくったものが徳永さんの言葉でどう表現されるのかを知りたかった。そして、あのとき『夢ぞろぞろ』に対していただいた感想のおかげで、『オーレリアンの兄妹』が生まれた。だから、やっぱりものをつくる人間にとって、批評をしてくださる人がいるというのはすごくありがたいことなんです。今日いただいた言葉も『鶴かもしれない2022』をつくるにあたって、良いヒントになりました。本当にありがとうございました!

取材・文:横川良明  写真:山野浩司

 

 

 

 

 

第1弾掲載
本 多 愼 一 郎
2021年11月13日 公開

 

第2弾掲載
徳 永 京 子
2021年12月6日 公開

 

第3弾掲載
小 泉 今 日 子
2021年12月25日 公開

 

第4弾掲載
谷 賢 一
2022年1月22日 公開

 

第5弾掲載
2022年2月5日 公開予定

 
 T O P  

第1弾掲載
本 多 愼 一 郎
2021年11月13日 公開

 

第2弾掲載
徳 永 京 子
2021年12月6日 公開

 

第3弾掲載
小 泉 今 日 子
2021年12月25日 公開

 

第4弾掲載
谷 賢 一
2022年1月22日 公開

 

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